【イスラエル駐在2年6か月】October 7th。ハマスの奇襲から3年。3回目のメモリアルデー。(2026年10月)

こんにちは、a-box-of-chocolateです。10月のテルアビブは相変わらず暖かくて、Tシャツ短パンで十分な日中です。寝るときはようやくエアコンを切っても快適に過ごせるようになってきました。太陽の恵みたっぷり、いつもキラキラ明るい地中海、気候に引っ張られるように陽気な人々。そんなイスラエルの良さが詰まった毎日を楽しんでいますが、今年もこの季節を迎えました。
オクトーバー・セブン。2023年10月7日。武装したハマスの奇襲攻撃により、イスラエル人1,195人(うち音楽祭会場で364人)が犠牲となりました。 約3,400人が負傷。そして、人質 約251人がガザ地区へ連れ去られました。
一応述べておきますが、この日の事件についてイスラエルで語られる事情は、もちろんイスラエル側からの視点によるナラティブです。イスラエル側からの報復も相当なものだと思いますが、それはそれで今回は脇に置いておきます。
『人質広場(Hostages Square)』が正式名称になった、テルアビブ美術館前の広場。3年間を振り返る。
テルアビブ美術館前に広がる広場です
2024年4月にイスラエルに来て以来、3年連続で10月7日をテルアビブで過ごしている私。
この『人質広場』でのプロテスト、集会、人質解放の瞬間など、様々なことを目撃してきました。今回の記事では、「ハマス戦争と人質解放」の流れについて、私がテルアビブで体験したことを振り返っていきます。
【過去記事はこちら】
2024年9月~10月
ほぼ毎週のように行われていた人質解放運動(デモ)の熱気は凄まじいもので、毎週土曜日は圧倒されていた私。

テルアビブ中心部に住んでいる私は、このように道路がプロテストをする人々で埋め尽くされる様子を、毎週(最後の方は毎晩)バルコニーから眺めていました。

人質広場には、ガザにとらわれた人々の写真が飾られて、この人たちを取り返すために今すぐ政府が動くよう、市民たちが要求するデモを繰り返していました。
直接の知り合いではなくても、大切な同胞を取り戻すことを何よりも大事にしていた、イスラエル人の熱いハート。ヤフコメに匿名でメッセージを書き込んで政権批判するのでは国は変わらない。自ら立ち上がり、旗を振り、声を上げ、行動する。圧倒的な行動力を持っているのがイスラエル人なのです。

『黄色』は、人質解放運動を象徴する色となりました。

2024年10月のビルボード広告。まだこの段階では人質解放に至っておらず、ネタニヤフ政権を批判するコメントが書かれていました。グーグル翻訳によると、「私たちは忘れません。あなたは責任者だから、あなたに責任がある。」と書いてあります。
2025年1月19日、人質解放のライブ中継。
この日、6週間の停戦が有効となり、ハマス側はイスラエル人女性3人(ドロン・シュタインブレヒャーさん、エミリー・ダマリさん、ロミ・ゴネンさん)を赤十字へ引き渡しました。イスラエル側は、パレスチナ人90人(女性69人、未成年者21人)を釈放。


私は中継を見に広場に行ったわけですが、ハマスの車に乗せられた人質たちが不自然なほどに顔色がよくて、体型も健康そうで、お土産みたいな紙袋を下げて車に乗り込んでいたことを鮮明に覚えています…。何か薬をのまされている?何を持たされている?と話題になりました。

当然ながら、私は全く面識のない3人ですが…これまで耐えてきた過酷な環境、そしてリアル友達が広場で絶叫・号泣しているのを見て、かなり胸が熱くなりました。
ちなみに、エミリーさんは最近、パートナーとご結婚されたばかり。幸せそうで何よりです。

最初の人質3人が解放された後のビルボード。銀行スポンサーのメッセージです。「そして、娘たちと息子たちはそれぞれの故郷に帰った。家族を抱きしめ、彼らの帰りを心待ちにしている。」泣きそうなメッセージが寄せられていました。
IDFの軍人、および人質として捉えられていた数多くの若者は、誰かの大切な娘や息子であること。この「家族を大事にする」というユダヤの文化と同胞意識が(いろんな意味で)結束力を強めるのだなと感じます。
2025年8月~10月

1月の人質解放以降、なかなか交渉が進まず。停戦と人質の全員返還に向けて、再び市民が力強く立ち上がった時期でもあります。この写真は25年8月中旬のラリー。またものすごい数の人がテルアビブに集結しました。
そして2025年10月9日、(トランプ氏の尽力により)ハマスとの停戦合意が発表されます。生存する人質20人全員の解放と4人の遺体返還が決まりました。


この時点で、733日が経過。
そして2025年10月11日、前日の10月10日にガザ地区の新停戦合意(トランプの和平プラン)が発効したことを受け、スティーブ・ウィトコフ特使はジャレッド・クシュナー氏やイヴァンカ・トランプ氏らと共にイスラエルに到着しました。同日(11日)の夜、テルアビブの「人質広場(Hostages Square)」で開催された人質解放を祝う大規模な集会(主催者発表で数万人〜数十万人が参加)のステージに登壇し、群衆に向けて演説を行いました。

再び広場に向かってみましたが、人が多すぎて近寄れず。大画面モニターもあちこちにあり、大勢の人がこの演説に聞き入っていました。

ようやく何もかもが終わるという目処がついた瞬間です。このプロテストを主導してきた遺族たちにとってはまたとない朗報だったことでしょう。
そして、2025年10月13日。その瞬間がやってきました。

737日。当事者たちにとっては、長い長い道のりだったに違いありません。




人質広場は歓喜と安堵の涙に包まれていました。「Peace Upon Israel」ーイスラエルに平和を。このときは、その後さらにイランとの関係が悪化して、ハマス戦争よりも強烈な「戦闘」へと展開していくとはつゆ知らず…。平和なひと時が長続きしないのもまたイスラエル。
2026年1月
ガザ地区に残されていた最後の一人の遺体は、イスラエル警察の特殊部隊に所属していたラン・グヴィリ(Ran Gvili)軍曹(当時24歳)でした。


最後の人質:ラン・グヴィリ軍曹の経歴と経緯
- 10月7日の英雄的行動:
2023年10月7日のハマスによる奇襲の際、グヴィリ軍曹は非番で怪我からの回復中であったにもかかわらず、急遽前線へ赴きました。イスラエル南部のキブツ・アルミム(Kibbutz Alumim)付近で戦闘に加わり、音楽フェスティバルの生存者を救出しながら、単独で14人のテロリストを排除したとされています。しかし、激しい戦闘の中で射殺され、遺体がガザ地区へと連行されました。 - 2024年の死亡宣告:
イスラエル政府は2024年1月の段階で、彼が10月7日の当日に戦死していたことを特定し、死亡宣告を出していました。 - 2026年1月の遺体回収作戦:
2025年10月の停戦合意に基づき、遺体の返還・捜索が進められる中、イスラエル軍はガザ地区北部(ガザ市近郊)の墓地周辺で特別な捜索作戦(作戦名:「ブレイブ・ハート」)を実施しました。法医学的な歯のデータ照合などを経て、拘束から843日目となる2026年1月26日に彼の遺体であることが正式に確認されました。
1月28日、最後の一人の遺体返還とともに、人質広場の電光掲示板の電源がオフとなりました。

ハマストンネルの彫刻にはメッセージが大量に書き込まれています。

2026年8月
テルアビブ美術館の「アートミュージアム・プラザ」という名称だったこの広場は、正式に「人質広場(Hostages Square)」という名称になりました。
【日本語訳引用】
2026年8月11日(火)、テルアビブ・ヤッファ市のロン・フルダイ市長は、テルアビブ美術館の広場にて「人質広場(Hostages’ Square)」の新しい看板を披露しました。これにより、2023年10月7日以来、人々の間に深く定着していたこの名称が正式に認められることとなりました。この広場は3年近くにわたり、人質の帰還を求める運動の中心的な拠点として機能してきました。そこは家族や市民、地域社会の人々が集い、集会やインスタレーション、様々な活動が行われ、人質の帰還への希望が絶やされることなく守り続けられた場所でした。
看板の披露後、フルダイ市長は人質家族の代表者らと、市内の文化施設「ベート・アリエラ(Beit Ariela)」で面会しました。同施設は、戦争勃発後、家族にとっての重要な拠り所となってきた場所です。施設の「シティ・リビングルーム(City Living Room)」は、家族が休息や打ち合わせ、食事、交流、そして時には宿泊を行うためのスペースとして開放されていました。
「人質広場」は、悲しみや希望、そして人質の帰還を求める声を公に表明するための中心的な集いの場となりました。この広場は、連帯、相互の責任、そしてすべての人質を帰還させるという決意を体現する、国家的に重要な都市空間となりました。そこは、人質の家族とイスラエル国内や世界中の市民が出会う場所であると同時に、大規模な集会、安息日(シャバット)の集い、インスタレーション、地域活動、数多くの市民参加型イニシアチブの舞台でもありました。人質が解放され帰還する際には、市民が集まってその帰還を喜び、祝福する場所ともなりました。
この期間中、テルアビブ・ヤッファ市は人質家族に寄り添い、多岐にわたる支援や協力を行ってきました。戦争の当初から、この広場は「人質・行方不明者家族本部」の活動拠点として提供され、市は運営に必要なあらゆるインフラを整備しました。具体的には、テント、電力供給、物流用機材、駐車場、輸送手段、公共スペースへのインスタレーション設置などが含まれます。さらに、中央図書館や市内の文化施設である「ベート・アリエラ」内の活動スペースも提供され、これらは全期間を通じて、家族を温かく迎え入れる開かれた「家」としての役割を果たしました。同時に、テルアビブ・ヤッファ市は社会福祉局を通じて、人質となった人々の数十もの家族に対し、精神的なケア、権利や給付の利用支援、経済的援助、そして各家庭のニーズに応じた個別サービスの提供といった支援を行ってきました。また、市の教育部門も、家族を支えるための市の取り組みの一環として、さらには相互の責任感を強め、イスラエル社会に生じた深い分断の癒やしに貢献するという決意のもと、この広場で教育的・価値観を共有する活動を実施しました。
このたび、同地を正式に認定する決定がなされたことを受け、テルアビブ・ヤッファ市はその意義を次世代へと継承していくことを目指しています。この広場を「人質の広場(Hostages’ Square)」と名付けることは、悲しみと希望が交錯したこの場所を記憶に留め、人質を帰還させるための闘いの記憶を、テルアビブ・ヤッファ市およびイスラエル国の歴史の不可欠な一部として残していくという決意の表れなのです。
2026年10月現在の様子



10月7日に撮影した写真です。昼間だったのもあり、広場はとても静かでした。3年経って、広場の姿は大いに変わっていますが、ここにとどまる魂や悲しみはいつまでたっても変わらない、非常に重たいものがあります。
こちらはディゼンゴフ・スクエア。

ハビマ・スクエア。




私はテレビ中継を眺めていただけです。およそ5万人が出席していたようです。
10月7日の事件以降、イスラエルのすべてが変わってしまった、と語るイスラエル人が圧倒的に多いです。私は(残念ながら)戦後のイスラエルしか知らないので、以前・以後を比べて体験として語ることはできません。この奇襲・虐待・人質問題は、生存者や遺族が後にPTSDに悩まされて、自ら命を絶ってしまうことも後を絶たず、「人質が解放された、停戦してよかったよかった!」という大団円では全くない、というのは、私個人でも痛切に感じます。

さて、まもなく選挙も近いイスラエル。今年の10月7日に出ていたビルボード広告は「ベン・グヴィル氏」。「2023年5月9日、イタマル・ベン・グヴィル。イスラエルは、敵は必ず倒さなければならない。彼が国防大臣だったら、10月7日は起こらなかっただろう。」と書いてあります…。極右の彼を支持する層も、一定数いるということでしょう。
戦争責任を追及する声やネタニヤフ政権への批判は多く、誰もがこの攻撃が起きたときの真相を知りたいと願うのは当然です。イスラエルに暮らして二年半、新参者の私ですら実感する国防力。これだけの軍事力がありながら、なぜハマスの地上奇襲攻撃を止める、または察知してすぐさま攻撃をし返すことができなかったのか?その点は大きな疑問を残すところです。

リクード党の巨大ポスター。「降伏しない」そうです。
選挙日は10月27日。なんと祝日になりました…学校も休み!在外投票システムはないので、イスラエルでの選挙権がある有権者は、イスラエルに帰国して投票する必要があるそうです。交通費自腹で飛行機に乗って投票しに来る人、どのくらいいるのか気になります。
私は、イスラエルの政治に対して関心も思い入れもありませんし、この一連の人質解放運動もずっと傍観者です。当事者として物事を見ると、つらくなりすぎるという側面もあります。単純に、こんなに誰かのために行動を起こせるだけのエネルギーもパッションもないだけ、という側面もあります。
それでも、本当にただの偶然ではありますが、この激動の3年にテルアビブに住んでいるという巡り合わせに便乗して、ユダヤ人の考えや想いを知ることができたのは幸運です。写真からもお分かりかと思いますが、(近所なので)かなり頻繁に人質広場に出没しては、歴史が動く瞬間を目撃してきました。史実においては、ハッピーエンドもなければ、バッドエンドもない。それはただただ、起きてしまった事実として目の前に横たわっている。そんな感覚が常にある私です。
この激動の時代においても、私個人の生活は全く切り離されたところで成立しているという、まるでパラレルワールドのような不思議な感覚。
明日、この国(日常)がどうなっているかわからない。今日と明日が連綿と続いていくのは当然のことではない、ということを知ったのも、イスラエル生活あってこそです。そんな貴重な(?)人生経験もまた駐在妻の醍醐味だと思っています。

